1日だけ復活してまた繰り返し

今日は病院へ行ったので、俊をサッカーの練習へ送っていったり、お着替えセットを用意して、保育園へも少し早くお迎えに行き、ジュースを買って、帰りがけにそのままウォーターパークへ連れて行きました。
帰路について、美味しいアイスクリームを食べたかったので、セブンイレブンに寄りました。それだけでも子供たちは喜んで、「今日は沢山ありがとう」と言っていました。
DVDプレーヤーを修理に出すためにヤマダ電機へ行き、俊と一緒にバーミヤンでランチをし、無理をして、私にできることをしたつもり。
ところが、やっぱり生きていく理由がない。生きていくためには、希望とか望みとか必要だと思うんだけど、どうしても欲望が沸いてこない。自分から捨てることはないけど、明日病気で死んでも別にかまわない。
今死んでも「よくがんばった」子供たちの将来を思っても、もう自分とは別物に思え、かかわることが虚しい。おいしいご飯を作って、子供たちを笑顔にしたいとか、思わない。
むしろ自分が生きたいとか、食べることや、きれいに着飾ることや、些細なことですら、喜びを感じていないのだから、作るのも面倒に感じられる。
生きていくという思いの喪失は、全てを壊していく=「死」へ向かう行為なんだということがよくわかる。
死ぬ前の祖母(加寿子おばあちゃん)も、同じ思いだったろうか?と思う。
私が生きる喜びがなければ、子供たちに与える影響を考えると、重要だと思うけど、愛想笑いをしても虚しく、子供たちには当然伝わってしまう。一応食事は作るけど、彩りを添えようとか、喜びを生み出そうという気持ちがなく、当然子供たちにもそれは伝わってしまう。
一緒に居ないほうがいいくらいだと思っている。どうしたものか?
一緒に居てもつまらないし、うっとうしい。わずらわしい。十分がんばってきたけれど、人からは非難されたりする。もうたくさんだ。