未だ世の中に認められていない認識

最近のプリクラって凄いな〜って感心しきりです。こうして見てると、もはや自分ではない気がしています。別人…誰よコレ(笑)

毎日1日が終わる頃にはクタクタです。特にPCに向かって日々構築しているサイトのために時間を取りたいところですが、子供がやってきて一緒に遊びたかったり、ダダをこねたり、遅々として進まないのははがゆいのですが、どうもPCに向かって仕事をするのは、子供から観ても遊んでいるようにしか見えないことがあるようです。
私の祖父母は人気のラーメン屋さん&おうどんや定食も出していたお店をしていて、いつも厨房に立ってお客さんとお話したりしながら、手を動かしていましたから、子供から見ても忙しそうでした。
働く姿を間近で見て育ったので、働くことを祖父母の姿で理解していると思います。だから隣の部屋で一人遊びをしていたり、そういう子供時代を過ごし、仕込みの時間にはカウンターに座ってパンを食べたり、自分で寂しさを紛らわせていたと思います。
忙しい中でも祖母との散歩は温かい時間でしたし、それがベースになって、私という人間を作り上げているのが親になった今、とても良くわかります。
先日チラッと何気なく見たTVの中で、TOKIOの山口さんが「悔しくて涙が出る」と仰っていたのが「子供の虐待」で、そのことが頭の中に残っていました。「自分より大きな大人に虐待されるということがどれだけ恐ろしいことか。」
子供の心に共感できる大人だなと思いました。

私なりに考えた結果、子育ては孤独であったり、精神的にも自分を犠牲にすることが多くなり、体力的にも大変だったり、周囲の厳しい目線などもあったりして、それは全部を背負うママを追い詰めていることってあると思います。
子供にキツク当たってしまったり、自分の感情の捌け口が子供に向かってしまったり、自分が子供の頃同じような境遇(虐待)を受けて育ったとかあると思います。
じゃあどうしたら良いのか?私も虐待?とも言える事や、もっと書くのも辛い状況や環境がありましたが、子供に対して自分の親を反面教師にしていけている理由を考えると、子育てを楽しんでいること。
「生まれてきてくれて、ありがとう」と思えることかしら?と思いました。その根底にあるのは、子育ての中で親は常に上から目線で子供を見下ろすけれど、3人の子供をそれぞれ10ヶ月お腹の中で育てる間に感じたことの中で、
未だ世の中に認められていない認識を抱くようになりました。
先ず一人目の俊の時、非常に理解力が低下しました。職業訓練校とデジハリへ通っていましたが、物凄く努力したにも関わらず、理解できないことがあり、今までの自分なら乗り越えられたはずの簡単なことが理解できない自分に、「何でこんなことがわからないのか?」とても苦しみました。
「何かが変だ?」そう思ったのが、今の私の未だ世の中に認められていない認識を抱くキッカケになりました。
二人目の子を妊娠した時にも、よりその認識は強固になっていきます。「何だか私、ステップアップしている。」そう感じました。今まで難しかった「自己管理やら、社会の仕組み」がクリアに見える。
社長に必要な視野が開けたなと自分では感じました。「もしかしたら、この子は将来社長的リーダーシップを取れる人間になるのかも?!」そう感じました。
3人目の嘉奏子の時は、本当に女の子とか性別は関係なく、わかっていなかった時からずっと、嬉しくってしょうがなかった。嘉奏子が生まれるのが嬉しくて嬉しくて、そんな妊娠は初めてでした。
もちろん長男や次男を授かったのは、ありがたいことと思っています。でも親や親族に反対されたり、非難されたり、色々とあったし、パパも子供はもう要らないようなことを言うし、否定されたまま産む決心をしたので、妊娠中も安らかな日というのはありませんでしたから、
3人目を妊娠してから、10ヶ月の間に沸々と湧き上がる自分の中の喜びの根拠や源がどこにあるのか?わからずじまいだけど、幸せな気持ちで妊娠できるというチャンスに恵まれた事が、私にとって本当に貴重なことでした。
経済的な不安はありましたが、とにかく子供を授かったことに幸せを感じられるのは幸運でした。
子育てを200%楽しむことについて考えてみました。
子供ってヘリコプターの音がすれば、空を見上げるでしょ。大きなものが高い空を飛ぶだけでも充分ワクワクするの。「何でかな〜?」とか「格好良い〜♪」とか不思議や夢でイッパイなの。
でも大人は「日に焼けるから空は見ない。」サングラスやバイザーを通して空を見るから色も違うの。音がしても、何の音だか知ってるから、見上げたりしない。「前を見て歩かないと危ないから」日常だから現実的なの。
でも子育てを楽しもうと思ったら、子ども達の日常から現実的な危険を取り除く努力を常に心掛けしながら、子供の心を忘れないことが、必要だなって思いました。
「共感すること」これが大切なんだと思う。大人も共感して欲しいでしょ。
カンニング竹山さんのキレルキャラもそうだと思うんだけど、あんな人がいたらうっとうしいし、嫌な空気になっちゃうよね。でもみんながちょっと心の中に思っている、普段口にはしないようなことをハッキリとあの人は言って、大げさにキレテ見せる芸人だから、共感する人がいて人気?というか支持されるんだろうなと思うの。もちろん人柄が良いのだろうとフォローしておきますが(笑)
人間は常にベースのところで「共感」して欲しいと思う訳で、子供にとってもそれは「自信」や「愛情」として蓄積されていくから、子供の時には特に大切な経験だと思います。
でも子供と接している大人が、子供の心を忘れているから、なかなか共感できにくいんじゃないかな?と思うんですよね。特に子供の頃に辛い経験をしたら、人間って辛いことは忘れるようにできてるの。だから自分の感情を隠しちゃう自己防衛機能が働いて、そこのところの感情が鈍く成っちゃうの。
虐待されたことも辛過ぎて忘れて、同じ事を子供にして、そんな自分を見て自分が子どもの頃を思い出したりするの。
でも私が思う世の中に認められていない認識から言えば、子どもは自分が持って生まれる個性があって、それは「遺伝」っていう親から与えられたものが全てというような考え方じゃなくてね、子ども自身が元々持っている「個性」を親のお腹に持ち込むので、親にも逆に影響があるんじゃないか?と思うの。
つまり子供の個性に親が影響されるってこと。それは子供から親への贈り物であって、一緒に乗り越える試練だったり、ステップアップだったり、感情への肥やしだったり、親にとっても自分が成長しながら生きていく上で大切なことなんじゃないか?それも解った上で、親を選んで生まれてくるんだろうなと。
その意味は、「一緒に成長するため。」赤ちゃんは、生まれる前からプレゼントをくれてる。そして子供が生まれるっていうシステムは、一緒に生きていこう、成長していこうっていうメッセージなんだろうなって思うようになった訳です。
長々とスイマセン。子供の個性を見ていると、私は子ども達からプレゼントをもらったんだなと思うようになり、それが段々確信に変わっていきました。もちろん実証できる根拠というものはありませんが、子供を産むことは、その機能を持って生まれた女性に与えられた特権と言えるんじゃないか?と思います。
マイナス要因も、プラスのプレゼントも、一緒に共有して、みんなで一緒にイキテル★そこに感動や感情のゆらぎがあり、それをプラスにとらえて感じながら、できれば喜怒哀楽の中の「喜び」とか「楽しい」と感じられるなら、確実に成長していける、またその自分の成長の中に生まれてきた価値ができ、喜びがあふれてくるのではないか?と思っています。イキテル★って素晴らしい。そう思える人が増えれば、虐待も減っていけるかもしれない。と考えたりしていました。
今日も昨日を反省して、1歩前へ進みたいと思います。
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